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始皇帝転生 |
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1話 始皇帝転生
中国ってさ。
始皇帝が統一しなかったら、分裂したまま歴史が続いていたよな。
え?始皇帝が何をやった人なのか知らない?
ほら、五百年続いた戦国時代を終了させて、中国を初めて統一した男だよ。
5000kmの長さがある万里の長城作ったり
巨大な墓に金かけまくったり
1万人収容できる超巨大宮殿作って贅沢三昧ハーレム生活した男なんだ。
もし、この男が居なかったら……中国はヨーロッパみたいに分裂したままの世界観で、21世紀を迎えたと思うぜ?
そんで俺の話も聞いてくれよ。
会社員(30)の俺はトラックに轢き殺されて、過去の世界に転生したんだ。
そんで父親の名前は大国『秦』の王子『子楚』。
母親は超有名な踊り娘『朱姫』で……俺の名前はセイ。
どうやら俺は、将来的に始皇帝になる人物に転生してしまったようだ。
うひょー。俺、ハーレム人生?
全ての美女は俺のもの?
最高だねぇ!
……って思っている時期がありました。
始皇帝の幼少時代って知ってるか?
俺と父親(子楚)も人質として、戦国七強国のひとつ趙国の都に囚われているんだ。
親父の祖国『秦』が趙を攻めたら、俺らは見せしめに処刑されるってわけ。
人質ってのは世知辛いねぇ。
何時、殺されても良い人材として見られている時点で辛いねぇ。
本国から全く重要視されてないって事を意味するから、奇跡でも起きないと玉座に就くのは無理なんだ。うん。
しかも、俺が6歳になる頃に、秦国が趙国に攻め込むイベントがある。
……やばい!
下手したら俺死ぬかも!
誰か助けて!
「おおっ!セイは元気だな!
」
親父(子楚)!
早く趙国から脱出するんだ!そうしないと死ぬかも知れないぞ!
……いや、現時点で趙国の首都を脱出しても、追撃されて捕まるだけだな。
確か、親父が生き残れたのは、首都を包囲している秦軍に保護されたおかげのはず。
つまり、その時に逃げないと生き残れない。
どうしよう。
始皇帝の人生、難易度高すぎる件。
脱出って大人数でやったら失敗するから、俺、放置されるかも?
「セイ、なかなかの才気やもしれぬ……この幼なさでこの言語力。
アッパレ!」
親父……アンタ、将来的にすぐ死ぬ人物だから、凄く頼りない気がするな。
エルフ娘(✿╹◡╹)
趙国の兵士( ´_ゝ`) ( ´_ゝ`)
親父(´・ω・`)
成蟜(せいきょう、生年不詳 -
紀元前239年)は、中国の秦の始皇帝の弟。長安君に封ぜられた。
『史記』始皇本紀によると、紀元前239年(始皇8年)、長安君成蟜が軍を率いて趙を攻撃したとき、屯留・蒲鄗の兵卒を従えて謀反した。秦がこれを攻撃すると、成蟜は屯留で死に、軍吏はみな斬り死にし、その民は臨洮に遷された
15話
16話
17話
18話
19話
20話
呂不韋はひとつ問題を抱えていた。それは太后となった趙姫とまた関係を持っていたことである。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない[33]。そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男・嫪毐を見つけた[34]。あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた[33]。やがて大后は妊娠した。人目を避けるため旧都・雍(鳳翔県)に移ったのち、嫪毐と大后の間には二人の男児が生まれた[34][33]。
このことは秦王政9年(前238年)、22歳の時に露見する。元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った[33]。『史記』「呂不韋列伝」では嫪毐が宦官ではないという告発があった[35]と言い、同書「始皇本紀」では嫪毐が反乱を起こしたという[29]。ある説では、呂不韋は政を廃して嫪毐の子を王位に就けようと考えていたが、ある晩餐の席で嫪毐が若王の父になると公言したことが伝わったともいう[34]。または秦王政が雍に向かった隙に嫪毐が大后の印章を入手し軍隊を動かしクーデターを企てたが失敗したとも言う[34]。結果的に嫪毐は政によって一族そして大后との二人の子もろとも殺された[34][33]。
事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった[33][30]。だが呂不韋の名声は依然高く、多くの客人が訪れたという。秦王政12年(前235年)、政は呂不韋へ書状を送った[33]。
君何功於秦。秦封君河南,食十萬戶。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀!
秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。
始皇帝本人生きてる間の反乱はほぼ完全に押さえ込んでる
端的に言うと始皇帝は自身が有能で勤勉過ぎたが故に
後継者が無能で怠惰である可能性を考慮しなかった
日に30kgの書類を決裁し、統一後も各地を精力的に行幸して治安維持に努めた
本来、秦のシステムはもっと小さい国しか統治できないものだったのに
始皇帝個人があまりにも有能だったがために、中華統一なんてしてしまった
だから怠惰で無能な二世皇帝が即位すると統治システム、治安維持システムが即座に破綻する
本人が死んだ途端の反乱続発王朝滅亡ってのは始皇帝の場合、本人の有能さの証明にしかならんのよ
秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、西安市の郊外の兵馬俑抗の発見で記述の正確さが証明されている。
加えて秦の場合中心部は山がちの地形で南部は沼沢地帯
さらに侵略者である匈奴は高機動力・定住を好まない集団
必然的に防御力が高い代わりに行軍の負担が大きく機動力の低い重装備は好まれなかった
始皇帝もそうだけど秦は長平の戦いやらで累計
数百万の兵士を殺しているのだ。親の仇・子の仇と思っていたのは
王族だけじゃなくて農民もたくさんいたので、恨み辛みが多い
悪評が出ないほうが不思議
舞妓の子供ながら若くして呂不韋を退ける怪物政治力
六国をアッサリ滅ぼす軍事的判断力
全てが人間離れした怪物
始皇帝の果たした役割は中国史上でもダントツだぞ
●鉄装備は超重い。性能良くても不便、。
●権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。パンと見世物ともいう。愚民政策の例えとしてしばしば用いられる名言であり警句である。
●一石(150キロ)の木管を処理。あ、官僚組織を整えたいと過労で死ぬぞ・・・これ・・・・うわぁ・・・
●呂不韋を許してやる
●カンヒ 救済 リシンと争わせて国を豊かにする。
●化合弓チートで、征服しまくり。
●封建制をぶっ壊して、中央集権制にする。
●全国民から恨まれまくるだろうから、娯楽を提供してやる。
●度量衡や文字の統一で文化も破壊
万里の長城
長城自体は戦国諸国がそれ以前から作っていたが、秦の長城はとてつもない
北方に長城を築く。後の歴代遊牧国家が領土とすることになるオルドス地方を
囲い込む無謀な延伸。輸送コスト等を考えると莫大な出費
あまりに北方に建設したので、匈奴を追い払いながらの工事だっと思われる。
2.馳道、直道の建設
道幅20〜30m以上の大規模な道路を帝国中に建設。直道の管理がなされていたこと
は発掘された当時の木簡文書からも裏付けあり。かつ、2000年後の現在でもいくつか
の道路の痕跡が航空写真で確認可能なほどの規模。
3.阿房宮の建設
でかすぎて未完に終わった王宮跡。現在は版築の基壇のみ確認できるが、紫禁城をかるく
超える面積の基壇跡が残されている。遠くから見ると小高い丘に見える。
4.始皇帝陵と兵馬俑などなど
説明不要。中国史上最大となった陵墓跡に、多分最大級であろう地下空間が
確認済。兵馬俑や銅馬車など副葬品も豪華すぎる。しかし、今や多数の観光客が
お金を落としていくので、唯一トータル収支が黒字となった事業かもしれない
3話
生まれたの
紀元前259年 -
紀元前210年
—
史記「呂不韋列伝」14[36]
流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した[10][34]。吉川忠夫は嫪毐事件の裏にあった呂不韋の関与は秦王政にとって予想外だったと推測した[33]が、陳舜臣は青年になった政がうとましい呂不韋を除こうと最初から考えていた可能性を示唆し、事件から処分まで3年をかけた所は政の慎重さを表すと論説した[29]。秦王政は呂不韋の葬儀で哭泣した者も処分した[29]。
●呂不韋?
1万人の召使がいるリア充。現代風のわかりやすく言うと、アメリカのメイドを1人野党と750万円かかる。
つまり、毎年750億円も人件費に使っている凄い父親なんだ。
●巨大宮殿? そんなん作らんよ? 経費かかりすぎぃ
エルフ娘のカグヤたんだけでいい。
●万里の長城?
5000キロとか・・・北海道から沖縄までの距離が3000キロやぞ?
そんなもん作るために、民衆酷使したら激怒して当たり前やん。
鉄条網どや?切断されて突破されるリスクあるけど、ええで?
なに?遊牧民族に回収されて、弓矢に代わるだけ?
あほ、そこを上手くやるのがお前の仕事だ。
●カグヤたんとえっちな事してたら、俺もエルフになってた。
やった。これで一緒に添い遂げる事ができる。
●集団をまとめるために共通の敵が必要だよな。
そうだ。日本に大魔王がいるという設定にしよう。
俺たちが500年も戦国時代やっていたのはそいつのせいだ!って捏造しよう。
後で問題になるだろうけど、まあいいや。
日本すまんな。
●百年経過した。
平和だ。たまに暗殺イベント起こるけど、カグヤと一緒に覚えた魔法があれば、楽勝。
●後世のwikiには、彼はこう記されている。
ユーラシア大陸を初めて統一した始皇帝。
万人をエルフへと変え導いた偉大な王。
21世紀の現在も生存中。(西暦の方がわかりやすいやんと謎の発言をして、いきなりBC0年に年号を変更)
1世紀にインド征服
2世紀、中央アジア、中東征服
3世紀、ヨーロッパ?地形複雑やけど、飛行機作って征服した。
4世紀アフリカ征服。
5世紀ロシア征服
6世紀 オーストラリア大陸征服
7世紀 アメリカ大陸征服
8世紀 月に着陸 火星に着陸
9世紀 月に巨大基地建設
10世紀 火星をテラフォーミング
11世紀 宇宙世紀を迎えた
12世紀 超光速航法発見
21世紀 銀河連邦成立。精神的な支柱になる始皇帝がいるおかげで楽勝だった。
最後のアメリカ、楽勝やった。
文明レベルに差がありすぎ。
中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した[6]。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一[8]、交通規則の制定などを行った。巨大プロジェクトも実行し、万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民に犠牲を払わせつつ行った。また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことでも知られる[7]。
専制[編集]
詳細は「秦六国の戦い(中国語版)」を参照
紀元前234年、桓齮に命じて趙を攻めさせた(肥の戦い(中国語版))。
李斯と韓非[編集]
秦王政による親政が始まった年、灌漑工事の技術指導に招聘されていた韓の鄭国が、実は国の財政を疲弊させる工作を図っていたことが判明した。これに危機感を持った大臣たちが、他国の人間を政府から追放しようという「逐客令」が提案された[37]。反対を表明した者が李斯だった。呂不韋の食客から頭角を現した楚出身の人物で、李斯は「逐客令」が発布されれば地位を失う位置にあった。しかし的確な論をもっていた。秦の発展は外国人が支え、穆公は虞の大夫であった百里奚や宋の蹇叔らを登用し[37]、孝公は衛の王族だった商鞅から[38]、恵文王は魏出身の張儀から[39]、昭襄王は魏の范雎から[40]それぞれ助力を得て国を栄えさせたと述べた。李斯は性悪説の荀子に学び、人間は環境に左右されるという思想を持っていた[37]。秦王政は彼の主張を認めて「逐客令」を廃案とし、李斯に深い信頼を寄せた[41]。
商鞅以来、秦は「法」を重視する政策を用いていた[38]。秦王政もこの考えを引き継いでいたため、同じ思想を説いた『韓非子』に感嘆した。著者の韓非は韓の公子であったため、事があれば使者になると見越した秦王政は韓に攻撃を仕掛けた。果たして秦王政14年(前233年)に[30]使者の命を受けた韓非は謁見したが、すでに彼は故国に絶望し、自らを覇権に必要と売り込んだ[42]。しかし、これに危機を感じた李斯と姚賈の謀略にかかり死に追いやられた[41]。秦王政が感心した韓非の思想とは、『韓非子』「孤憤」節1の「術を知る者は見通しが利き明察であるため、他人の謀略を見通せる。法を守る者は毅然として勁直であるため、他人の悪事を正せる」という部分と[43]、「五蠹」節10文末の「名君の国では、書(詩経・書経)ではなく法が教えである。師は先王ではなく菅吏である。勇は私闘ではなく戦にある。民の行動は法と結果に基づき、有事では勇敢である。これを王資という」の部分であり[44]、また国に巣食う蟲とは「儒・俠・賄・商・工」の5匹(五蠹)である[44]という箇所にも共感を得た[41]。
韓・趙の滅亡[編集]
秦は強大な軍事力を誇り、先代・荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた[24]。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった[41]。
韓非が死んだ3年後の秦王政17年(前230年)、韓は陽翟が陥落して王が捕縛されて滅んだ[41]。(秦韓の戦い(中国語版))次の標的になった趙には、王の臣・郭開への買収工作がすでに完了していた。斉との連合も情報が漏れ、旱魃や地震災害[45][46]につけこまれた秦の侵攻にも讒言で李牧・司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた。(秦趙の戦い(中国語版))趙王は捕らえられたが、公子は代郡(河北省)に逃れた。王は捕虜となり国は秦に併合された[47]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の大后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った[47]。なお、紀元前228年に母が死去した。
暗殺未遂と燕の滅亡[編集]
詳細は「荊軻」を参照
燕は弱小な国であった[48]。太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いはかつての趙が政へ向けた態度同様に礼に欠いた[47]。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は帰国を許したという[47]。実際は脱走したと思われる[49]丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった[47][50]。
逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠(中国語版)石室。
両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻めたが、武力では太刀打ちできなかった[48]。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という人物に白羽の矢を立てた[7][48]。秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽(中国語版)を供に連れ、督亢(とくこう)の地図と秦の裏切り者・樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ[48][47]。地図の箱を手にした秦舞陽が差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た[48]。受け取った秦王政が、開いた地図の巻物から現れた匕首を手に、荊軻は襲いかかった。秦王政は身をかわしたが、護身用の剣を抜くのに手間取った[48]。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り倒した。二人のいつわりの使者は処刑された[48][51]。
秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた(秦燕の戦い(中国語版))。暗殺未遂の翌年には首都・薊を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された[51]。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた[49][51]。
魏・楚・斉の滅亡[編集]
次に秦の標的となった魏は、かつて五ヵ国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。それでも、黄河と梁溝を堰き止めて首都・大梁を水攻めされても3か月は耐えたが、秦王政22年(前225年)に降伏し、魏も滅んだ[51]。(秦魏の戦い(中国語版))
そしてついに、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った[52]。(秦楚の戦い(中国語版))秦王政は若い李信と蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍は楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は老将軍・王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした[49][53]。
最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相・后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ[54]。(秦斉の戦い(中国語版))秦が戦国時代に幕を引いたのは秦王政26年(前221年)39歳であった。[54]。
始皇帝王朝[編集]
現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像
皇帝[編集]
中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰・馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」は周の時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」の上位に相当する号が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「秦皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は号のみ自ら変え、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した[9]。なお、戦国時代の秦王は、斉王とともに、一時期であるが西帝・東帝を名乗っていた。
また秦王政は、王の行いを評して死後贈られる謚の制度を、臣下が君主をあげつらうものとして廃止した。そして自らを「始皇帝」とし、次代から「二世」「三世」と数えるように定めた。
五徳終始[編集]
始皇帝はまた戦国時代に成立した五行思想(木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を以って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた[55]。五行の「水」は他に、方位の「北」、季節の「冬」、数字の「6」でも象徴された[56][57]。
政治[編集]
始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した[58]。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され[59]、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた[60]。これは郡県制を中国全土に施行したものである[57]。
統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招く[59][61]と強硬に主張した李斯の意見が採られた[57]。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された[62]。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった[60][63]。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった[60]。
経済その他[編集]
始皇帝と李斯は、度量衡や通貨[64]、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法[65]などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った[62][66]。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した[62]。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された[60][66]。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した[61]。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた[67]。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい[68]。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した[60][61]。
度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている[69]。
廿六年
皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者
皆明壹之
始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。
—
青銅詔版[70][69]
大土木工事[編集]
阿房宮図。清代の袁耀作。
咸陽と阿房宮[編集]
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた[71]。咸陽城には滅ぼした国から鐘鼓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった[71]。
始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ[71]巨大な宮殿であった[72]。
名称「阿房」の由来には諸説あり、「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも[71]、四阿旁広の様子からつけられたとも[71]、始皇帝に最も寵愛された妾の名[73]とも言われる。
始皇帝陵[編集]
秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:北緯34度22分52.75秒
東経109度15分13.06秒)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された[74]。
木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという[74][75]。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた[74]。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた[74]。
1974年3月29日、井戸堀りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった[76]。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される[77]。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された[78]。
秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。
現代に残る霊渠
万里の長城[編集]
詳細は「万里の長城」を参照
中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴も東胡や月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。[72]。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた[72]。そして巨大な防衛壁建設に着手した[46][79]。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった[80][72][81]。
霊渠[編集]
詳細は「霊渠」を参照
中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有靈渠」というものがある[82]。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し[83]、中国の南北を接続した[83]。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間をつないだ[83]。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた[83]。これは、万里の長城・四川省の都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる[83]。
天下巡遊[編集]
中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)は[84]いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる[85]。
しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事[86]に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された[85]。
順路は以下の通りである[85]。
始皇28年(前219年、第1回):咸陽‐嶧山(山東省聊城市)‐秦山(山東省泰安市)‐黄(山東省竜口市)‐腄(山東省煙台市)‐成山(山東省文登市)‐芝罘(中国語版)(山東省煙台市)‐瑯邪(琅邪、山東省諸城市)‐彭城(江蘇省徐州市)‐衡山(湖南省湘潭市)‐南郡(湖北省南部)‐湘山祠(湖南省湘陰県)‐武關(陝西省丹鳳県)‐咸陽[87][注
2]
29年:咸陽‐陽武(河南省原陽県)‐之罘‐瑯邪‐上黨(山西省長治市)‐咸陽[88]
始皇32年(前215年、第3回):咸陽‐碣石(河北省昌黎県)‐上郡(陝西省北部)‐咸陽[89]
始皇37年(前210年、第4回):咸陽‐雲夢(湖北省雲夢県)‐海渚(安徽省桐城市)‐丹陽(江蘇省南京市)‐錢唐(浙江省杭州市)‐會稽(会稽‐浙江省紹興市)‐吳(江蘇省蘇州市)‐瑯邪‐成山‐之罘‐平原津(山東省平原県)‐沙丘(河北省平郷県)[90]
これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である[91]。
封禅[編集]
第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の秦山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ[92]、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる[93]。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え[94]、この儀式を遂行した[95]。
しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり[93]、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず[92]、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった[96][95]。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を遂行した[92][95]。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、近郊の梁父山で「禅」の儀式を終えた[95]。
この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった[96]。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか[95]、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる[92]。吉川忠夫は、始皇帝は秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた[95]。
暗殺未遂[編集]
始皇帝は秦王政の時代に荊軻の暗殺計画から辛くも逃れたが、皇帝となった後にも少なくとも3度生命の危機にさらされた[105]。
高漸離の暗殺未遂[編集]
詳細は「高漸離」を参照
荊軻と非常に親しい間柄だった高漸離は筑の名手であった。燕の滅亡後に身を隠していたが筑の演奏が知られ、始皇帝にまで聞こえ召し出された。ところが荊軻との関係が露呈してしまった。この時は腕前が惜しまれ、眼をつぶされることで処刑を免れた。こうして始皇帝の前で演奏するようになったが、復讐を志していた[106]。高漸離は筑に鉛塊を仕込み、それを振りかざして始皇帝を撃ち殺そうとした。しかしそれは空振りに終わり、高漸離は処刑された[105][107]。この後、始皇帝は滅ぼした国に仕えた人間を近づけないようにした[105]。
張良の暗殺未遂[編集]
詳細は「張良」を参照
第2回巡遊で一行が陽武近郊の博浪沙という場所を通っていた時、突然120斤(約30kg[72])の鉄錐が飛来した。これは別の車を砕き、始皇帝は無傷だった[102]。この事件は、滅んだ韓の貴族だった張良が首謀し、怪力の勇士を雇い投げつけたものだった[102]。この事件の後、大規模な捜査が行われたが張良と勇士は逃げ延びた[34][105][108]。
咸陽での襲撃[編集]
始皇31年(前216年)、始皇帝が4人の武人だけを連れたお忍びの夜間外出を行った際、蘭池という場所で賊が一行を襲撃した。この時には取り押さえに成功し、事なきを得た。さらに20日間にわたり捜査が行われた[105][109]。焚書[編集]
胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金になった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった[113]。始皇帝はこれを李斯の諮問にかけたが、元よりも郡県制を推進した李斯が意見に利を認めるはずがなかった[114]。そして、始皇帝自身も旧習を否定する思想に染まっていた。信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣うことは、切り株の番をするようなものだ」と論じられている[115]。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった[114]。始皇帝自身がこの思想に染まり、自らの治世を正しいものと考えていたことは、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる[116]。
すでに郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、体制の問題点が意識されていたか、または先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される[116]。しかし始皇帝の決定はきわめて反動的なものであった。『韓非子』「姦劫弒臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出してはわめき合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある[117]。始皇34年(前213年)、李斯はこのような妄言の根拠となる「古い本」すなわち占星学・農学・医学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を焼き捨てる建策を行い、認められた[118]。特に『詩経』と『書経』の所有は、始皇帝の蔵書を除き[注
3]厳しく罰せられた[114]。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った[119]。
坑儒[編集]
始皇帝は「後王思想」で言う批判を許さない君主の絶対的基準となった。ここにまたも方士らが取り入り、廬生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも[120]、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在[121]を元にする超人を指した[103]。廬生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時には居場所を李斯に告げられたと疑い、周囲にいた宦者らすべてを処刑したこともあった[103]。
しかし「阿諛茍合」の類である真人の来訪など決してなく、やがて粛清を恐れた廬生は方士仲間の侯生とともに始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。これを知り激怒した始皇帝は学者を疑い尋問にかけた。彼らは言い逃れに他者の誹謗を繰り返し、ついには約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し[122]、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる[103]。『史記』には、学者らを「諸生」[123]と表記しており、さまざまな学派の人間が対象になったと考えられるが、この行為を唯一諌めた長子の扶蘇[124]の言「諸生皆誦法孔子」[113]から、儒家の比率が高かったものと考えられる[125]。
讒言を不快に思った始皇帝は扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた[103]。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが[113]、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬が匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝は扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった[72]。
坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返ることができるという究極の試験であった可能性を示唆する[126]。
祖龍の死[編集]
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